『京都ぎらい』 井上章一 20159月 朝日新聞出版社

 

 

京都の「ぶぶ漬け」、あるいは「いけず」を取り上げて京都を批評する本は幾つかある。この本もその類いかと思って買ってみたが、必ずしもそうではない。

 

著者は、生まれと育ちが洛中ではなく嵯峨と宇治である。ゆえに、京都人(洛中人)に蔑まれてきたと自嘲的に書いているが、これは彼独特のユーモアであり、それ自体が主題ではない。

 

若干、斜に構えた文章ではあるが、京都の仏教界に対する皮肉、南北朝の歴史の講釈、そして明治以降の中央政府による思想・文化の画一化に対する批判は、少なくとも私には共感できる。

 

靖国神社での戦死者の顕彰、国家(君が代)や国旗(日の丸)の制定は、著者の言うとおり、明治以降の政府が進めたものである。1000年の歴史を持つ京都から見れば、それが日本の歴史に根ざしたものとは言い難い。

 

明治維新は無血革命であった、国のために命を落とした人達が靖国神社の御霊として合祀されたという話は、東京人ではない著者にとっては、何やら鼻白む思いがするのであろう。

 

蛤御門の変、会津戦争、そして箱館戦争で死んだ幕臣達は、明治政府からすれば国家に反逆した罪人でしかなく、靖国神社に祀る価値は無いというわけである。同様に、維新で活躍した西郷隆盛も西南の役で罪人となり、やはり靖国神社には祀られていない。

 

著者は、京都では「七」は「ひち」であり「しち」ではないという。つまり、七条は「ひちじょう」であって「しちじょう」ではない。しかし、東京の政府進めた国語の画一化により、「ひち」という読みは、方言として辞書か葬り去られたという。

 

そうそう、かく言う私は名古屋生まれであるが、確かに名古屋では「質屋」の「質」は「ひち」であり、「しち」ではない。これも同じであろう。

 

 

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