お墓 (2016/8/13)
今日からお盆。と言うわけでもなかろうが、新聞にお墓に纏わる菩提寺とのゴタゴタ、あるいは墓じまいに関わるお寺との一騒動をテーマにした記事が出ていた。
多くの人にとって菩提寺と檀家との付き合いは難しくなっている。お墓はあるが、遠い田舎の故郷に頻繁に帰るわけにも行かない。その一方で、お寺さんも過疎化の影響でお寺の維持が難しくなっている。そんな事情から、アマゾンがお坊さんの派遣サービス(お坊さん便)を提供し、これに全日本仏教会が猛烈に抗議するという出来事が持ち上がった。しかし、予想に反して、既存の仏教界に対する批判の声が圧倒的であったという。
似たような話がカミさんの友達からもあった。余りにも遠い故郷のお墓なので、菩提寺に墓じまいを伝えたところ、数百万円を要求され、非常に憤慨していたというものである。お寺から、何百万円も払えと要求されれば、心の安らぎどころか、宗教心など吹っ飛んでしまうというのはごもっともな話である。
今や都会人にとって、お寺とは宗教の繋がりと言うよりも、葬儀とお墓の維持に限定されてしまっていることは否定できない。私も、両親の骨はお寺に納めてあるものの、私には仏教徒であるという自覚が全くない。これは海外、とりわけ回教徒の多い中東地区で、「お前の宗教は何か」と聞かれたときに一番困る。親のお墓は仏式であるが、私は無宗教に近いと応えることにしているが、相手からはなんとなく不信心者と言われているような気がしてしまう。
私の両親の骨はお寺にあると申し上げたが、これもオヤジの考えで永代供養に切り替えた。祖父母の墓はオヤジの故郷のお寺にある(と言ってもオヤジ自身は戦前の満州で育ち、満鉄に務めていたという経歴を持つ敗戦時の引揚者なので、祖父母の故郷といった方が正しい)。オヤジは自らの余命がそれほど無いと自覚し始めたとき、故郷のお墓は触らず、自分の骨は宗派を問わないお寺で永代供養にする様に言い残した。理由は私が故郷を遠く離れた関東を生活基盤としているからである。
この永代供養、私にとっては非常に受け入れやすい。骨を納めたときに確か50万円ほどを支払ったと思う。お寺は向こう50年間毎日永代供養のお経を上げてくれる。命日にお寺に行った際に、その旨を寺務所に伝えれば、お経の中で親の名前を読み上げてくれる。それもお寺から費用を要求されるわけではなく、恥ずかしくない程度のお布施を包めば良い。永代供養のお経はお昼と決まっているので、取り立てて申し出なくとも、勝手にお寺に入ってお経を聞いていても良い。近所のご老人とおぼしき人達が結構本堂に集まっている。重荷にならない、日々の生活の中に溶け込んだ心地よいお寺との関係なのだろう。
このお寺はあらゆる宗派によって支えられる大きな組織なのでこのような仕組みが可能なのであり、全てのお寺に当てはまるわけではないが、仏教界も時代の変化に対応していかねば、寺を維持し続けることは難しいだろう。