『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』 小倉隆康 20229月 講談社

 

 

朝日新聞の書評に出ていたことで、手にした本である。書評の出だしは「優しさと絡み合った嘘と寂しさ」で始まる。

 

社会の風潮からすれば、当時は人から見下してみられる存在でしかなかったストリッパーの生涯かもしれない。しかし、恵まれなかった生い立ちから、最後は生活保護を受けて釜ヶ崎のドヤ街で亡くなるまでの一芸(能)人の人生としてこれを語れば、何やら心に訴えるものがある。彼女が生きた時代が今の人達には思いもよらないような社会環境であったことを考えれば、なおさらである。

 

一条さゆりは昭和12年生まれなので、私より13歳年上である。彼女がストリッパーとして一世を風靡したのは1960年代から1970年代初めであり、私にもその名前に記憶がある。

 

当時の社会風潮から言えば、労働組合闘争や大学紛争が華やかかれし頃であった。また、警察が強行に「公然わいせつ」を取り締まっていた時代でもある。ストリップにとどまらず、当時日活が売り物にしていた「ロマンポルノ」の作品について、監督と映画倫理委員会の審査員が逮捕されるという事件があった。この日活ロマンポルノ事件は最終的に検察側の主張が棄却され、被告は無罪となった。

 

文学の世界でも同様な事件があった。作家野坂昭如が永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を雑誌「面白半分」に掲載したことで、野坂と雑誌編集長が起訴され、罰金刑が科された。これは四畳半襖の下張事件と呼ばれる。

 

今であれば、警察・検察は何故その程度のことに目くじらを立て、起訴・裁判に持ち込むのだというものである。しかし、それが当時の日本社会であった。一条さゆりも何度か起訴と罰金刑、そして執行猶予を繰り返し、最終的に懲役刑が下された。

 

一方、このわいせつ罪を巡っては、社会の規範が大きく変わりつつ時代でもあった。ストリップは大衆芸かわいせつか、劇場という限定された場所で演技するストリップにそもそも被害者は存在しないという議論が湧き上がり、彼女の裁判では作家や学識者が弁護側の立場で意見を述べた。お上のお裁きに対抗する庶民の抵抗であった。

 

かつて君臨したストリッパーの頂点の座は、彼女の人生から見ればそれほど長いわけではなかった。貧しさゆえに教育も満足に受けられず、二十歳を待たず半ば騙されたような形でストリップの道に入った彼女にとって、過激な演技はお客さんを喜ばすための芸であった。それがなんで牢屋にまで入れられねばならないのだ、と言う思いは強かったのだろう。

 

出所後の彼女の人生では、ストリップの女王という栄光は過去のものとなった。しかし、そんな世界でしか生きられなかった彼女が普通の生活に入ることは簡単ではなかった。引退後の夢として描いていた飲食店を何度か開いては見たものの、経営は長続きしなかった。

 

晩年生活保護を受けるに至り、彼女はその日暮らしの人達が住む釜ヶ崎で人生の最後を送った。それは必ずしも不幸とは言い切れなかったようである。

 

敗戦後の日本が目覚ましい経済発展を遂げた1960年から70年代、その発展の底辺を支えていた人達全てがその恩恵を受けたわけではなかった。日傭いの建設現場で働き、夜は簡易宿舎で寝泊まりするしか生きる道がなかった人達はその筆頭とも言える。そんな釜ヶ崎での生活は彼女の心に安らぎを与える場所だったのかも知れない。

 

 

 

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