空宙博
(2023/1/30)
「そらはく」と読む。正式名称は「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」、各務原市と岐阜県が所有する公設の博物館である。
明治時代、この地において旧陸軍が演習場を設置し、その後大正に入って各務ヶ原飛行場を作ったことが起源となる。旧陸軍各務ヶ原飛行場は、現在自衛隊の岐阜基地として使われている。また、川崎重工業(当時は川崎造船)が隣接地で軍用機を作ったという歴史がある。
博物館では、大戦中に川崎重工が陸軍向けに製造した三式戦闘機「飛燕」の機体(復元)を見ることができる。
第一次世界大戦で出現した軍用機の技術は第二次世界大戦で一気に発展した。当時、欧米に比べまだ技術が遅れていた日本も、先進国に追いつけとばかりに軍用機作りに邁進していった。
飛燕もその一つであるが、その出来は決して英米独の技術に追いついたとは言い難い。飛燕を名機と呼ぶ人は多いが、その性能が米軍機に比べて勝っていたわけではない。
とりわけダイムラーのライセンスを得て製造した液冷エンジンは、日本の工業技術で量産するには精密すぎた。油漏れや作動不調が頻発し、実戦配備しても整備が手に負えなかったという。大戦中の軍用機の多くが空冷エンジンを使っていたのは、液冷エンジンに比べ構造が簡単で、製造と整備が容易だったからである。
当時の日本の技術水準では、工業製品として一番重要な品質管理が出来なかった。問題が出れば、職人技で現物合わせをしながら調整するしか方法がなかった。少々酷な言い方かも知れないが、当時の日本は飛行機を作ることは出来たが、工業規模で飛行機を量産する技術は未熟であった。
それは飛燕だけでなく、零戦でも同じであった。戦時中の連合国の軍用機の生産台数を比較すれば一目瞭然である。連合国ばかりではない。同盟を結んだドイツと比較しても歴然としている。
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乙式一型偵察機(サルムソン2A2) |
三式戦闘機二型「飛燕」(川崎キ61-II改) |
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十二試艦上戦闘機(「零戦」試作機) |
川崎 ハ140エンジン(「飛燕」二型搭載) |
三菱 ハ42(ハ214)エンジン |