日本人の単一性ゆえなのか、あるいは排他性なのか、単なる世間(世界)知らずなのか (2018/10/28)

 

 

今日、たまたま体育館で会ったカナダ人と交わした挨拶の中で、いろいろと考えさせられる事があった。ちなみに、彼はカナダ国籍であるが、妻が日本人であり、日本での生活は長い。現在、鎌倉の高校で英語を教えている。

 

交わした挨拶は別に大したものではない。「元気かい」、「まあまあだよ」、「ところで学校での仕事はどうだい」という流れである。

 

彼、「うん、ちょうど中間試験が終わって採点が済んだところだよ。」、「この後、生徒達はニュージーランドに短期留学することになっている。」

 

私、「へー、凄いじゃないか。若い人達が海外を経験して、自分達とまったく違う世界を知ることはいいことだよ。」

 

彼、「日本の文化の単一性は素晴らしいと思うけど、自分たちの世界だけしか知らない人が多いのは問題だね。」、「実は、今アメリカで問題になっている、中米からの貧困者のキャラバンの話を生徒にしたんだけど、彼らこの話を知らないんだ。」、「ところでキャラバン、知ってるだろ?」

 

私、「知ってるよ。中米の貧困層が仕事を求め、歩いてアメリカに向かっているって話だろ。」、「当初1000人規模だったものが、今や7000人にまで膨れあがったっていうね。」

 

ま、こんなたわいない話であったが、よくよく考えれば、若い人達が海外の出来事に無関心というのは、結構深刻な話である。

 

話はがらりと変わる。先日、シリアで拘束されていた安田純平氏が解放され、日本に帰国したことで、例の如く「自己責任論」が交わされている。ここで自己責任を言う人達の考えは概ね次のようなものであろう。

 

「あれほど、政府から行くなと言われていたのに、それを無視して行って、捕まったら『助けて下さい』はないだろう。」 

 

「政府関係者に迷惑を掛けておいて、何とも思わないのか。」

 

「助けるために政府が使った金はそもそも税金なのだぞ。」

 

これに対して、ジャーナリストからは反論が出ている。「彼のような人物がいるからこそ、日本から遠く離れた国で何が起きているか、日本で知ることが出来るのだ。」、「真実を報道する、知ることの重要性を知るべきである。」

 

私の印象では、自己責任論をかざす人達と、ジャーナリズムを擁護する人達の因って立つ基盤が噛み合っていない。先ほどの私とカナダ人との会話で出た「日本人は単一性が強く、概して海外の出来事に関心を持たない」という部分と重なる。

 

自己責任論をかざす人達は、日本的な感覚で言えば、常識をかざしているように見える。よくある話であるが、子供がしでかした不始末を親が叱る言葉である。

 

「お前、あれほど駄目だと言っておいただろう。お前のお陰で、他人様がどれだけ迷惑を被ったか考えてみろ。」

 

ふと頭をよぎったのは、安田氏の事件でこのような噛み合わない話になるのは、「日本人の単一性ゆえの視野の狭さ」、「日本と世界(他の国々)とは違うという思い込み」、あるいは「日本の物差しでしか世界を計ることができない、すなわち『世間知らず』」が根本にあるのではなかろうかという思いである。

 

多分、アメリカ的な発想でいえば、安田氏と日本政府とのやり取りはこうなるべきではなかったのだろうか。

 

1. 日本政府はシリアに入ることの危険性を告知する。そして入らないことを強く勧めるが、政府に入国を強制的に阻止する権限はない。

2. 日本政府として、もし安田氏の身に何か起きれば、国民を保護するためのできる限りの行動を取る。安田氏は、日本国民として政府に保護要請を求めることが出来る。

3. しかし、万が一、何かが起きても政府は一切の責任を負わない。すなわち、保護(救助)に失敗しても、政府はその責任を負わない。かつ、国連安全保障理事会の決議に従い、日本政府は拉致に際して身代金の支払には応じない。

 

随分昔であるが、ニュースでこんな内容の話があった。どこかの国の動乱で、在住のアメリカ国民を救助するために米軍は救援機(ヘリコプター)を派遣した。避難する一般人(米国民)を救援機に乗せる際に、その場で一人一人に「(撃墜されても、)政府は一切の責任を負うものではない」という文書に署名させていた。

 

これが世界の現実だろう。

 

 

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