安全保障関連法 (2015/9/23)

 

 

先週土曜日の19日、安保関連法が参議院を通過し成立した。

 

採決を巡っての国会の乱闘騒ぎ、国会の外に集まった反対派市民のシュプレヒコールの様子は久々に見た政治の大混乱であった。翌日以降、新聞はこぞって法案通過について様ざまな分析や意見を掲載した。法の成立で日本が戦争に巻き込まれるというもの、法律自体が違憲であるというもの、そして実業界からは、中国を仮想敵国視することは日本経済にとって得策ではないという意見もあった。

 

安倍首相が安保関連法を通そうとした一連の手法は拙速・稚拙な印象を免れない。一方、国会の論争が違憲論争と米国の戦争に巻き込まれるという話に終始したことも残念な結果であった。そもそも議論の根っ子には、今まで否定してきた「集団的自衛権の行使を認める」という政府による憲法解釈の変更があった。それがゆえに、法案審議は憲法論と戦争反対という平和論だけで終わってしまった。言い換えれば、世界を取り巻く安全保障に関わる環境の変化やアジアを含めた地域的な紛争に対して、日本がどう向き合っていくのかという政治としての議論はなかったように見える。

 

一番の問題は、今の憲法を聖域化したまま、これまで政治が都合の良いようにその解釈を変えて来たことにある。第9条とは極めて明確に「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、そして「交戦権の否認」を謳っている。政府の解釈である自衛隊は戦力ではないという論理は、後付けの屁理屈でしかない。ちなみに、かつての社会党は自衛隊を違憲合法と呼んだが、まさに正論である(と、私は思っている)。

 

個別的自衛権は憲法第9条に反しないという解釈も同じである。これは戦後米ソのイデオロギー対決が鮮明化し、かつ朝鮮戦争が起きたことという日本の安全保障を巡る環境の変化の中で、自衛隊を創設したことを正当化させるための政治的対応によるものである。旧ソ連の崩壊により米ソ対決の構図がなくなった半面、国際紛争の原因はもっと複雑になってきた。しかも第二次世界大戦の直後のように、国際連合による世界秩序の維持という枠組みは通用しなくなった(アフリカや中東の内戦、そして中国が引き起こした南シナ海の領土紛争を見れば明らかである)。そんな中で安倍政権が持ち出したのが、日本の安全保障を確保するために集団的自衛権を認めるという政治的な対応と憲法解釈の変更である。

 

本来であれば、1950年代に自衛隊を成立させ、個別的自衛権という政治解釈を打ち出した時点で、憲法を見直すべきであった。法が違憲か合憲かを判断するのは司法の役割である。国際情勢を含めた社会環境の変化に対応すべき法律が旧態依然とした憲法と矛盾を引き起こすことは至極当たり前である。ならば原点に戻って憲法改正を議論すべきである。それが立法府の仕事である。

 

 

 

 

 

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