原発事故から電力産業構造問題の議論へ (2011/5/13)
福島第一原発事故から二カ月が経過した。一方、放射能に汚染された地域の住民への保証から、他電力会社の原発の安全性に対する懸念、そして、原子力政策のあり方にまで、問題は次々に拡大してきている。これは原子力に限らず、本質的な議論を徹底的に詰めることを避け、それによって生ずるであろう危機への対応を曖昧にし、何となく全体のコンセンサスさえ出来上がればそれでよしとする、日本的意志決定手段の欠陥が一気に表面化したと考えるべきであろう。
これまでの動きを見ると、いろいろな教訓を与えてくれる。
肝心要の東電の保証問題についても、何とか政府の方針が決まったものの、具体的な行動に進むまで、まだ相当の時間がかかるだろう。これまでの東電の対応を見てもわかるように、彼らの第一の関心事は如何に保証額と損失額を限定するかである。その一方で、政府の避難命令で仕事を捨て、強制的に疎開させられた人々に対する金銭的な保証はまだ行われていない。マスコミで報道されているように、20km圏内に住む農家や酪農家は今まで積み上げてきた彼らの生活そのものを捨てることを強制されたものの、明日からの生活をどうするのか、何も決まっていない。
事故の保証問題で菅首相が下した決断は、「東電の無限責任」であった。ある意味、これは当然である。電力会社が自らを民営と呼ぶならば、あらゆるリスクを前提にして、そのリスクを取るのか、取らないのかという判断で経営をしなければならない。残念ながら、戦後これまでの日本の電力会社の経営はそうではなかった。政府の意向を受け入れる代わりに、地域独占という決して赤字とならない経営環境を手にしてきた。東電でいえば、過去、役人の天下りを受け入れ、最終的に副社長の椅子を与え、監督官庁との蜜月関係を保ってきたという事実がそれを物語る。
もう一つ、今回の事故を受けて、菅首相は中部電力に対して、浜岡原発の運転停止を要請した。これについては、様々な意見が出てきた。とりわけ自民党の代議士からは、「唐突」、「政治パフォーマンス」という非難が出たが、かといって、彼らは、「今、浜岡原発を停止する必要があるのか?それとも、ないのか?」という判断には全く踏み込まない。そもそも、日本の原子力は、自民党政権下で政府と電力会社の阿吽の呼吸で進められてきたものである。米国に比べて、規制制度の枠組みは透明性に欠け、いったん事故が起きた際の責任体制、対応の仕組み、そして保証方法については曖昧なまま、今日まで問題を先送りしてきた。先送りしてきた問題が今回一気に吹き出しただけである。
絶対安全と強弁してきた東電の福島第一原発が事故を起こし、しかも最悪のシナリオである炉心溶融が1号炉で発生していたという現実、一方、政府の地震調査委員会が、浜岡原発直下で発生すると想定される東海地震が、今後30年以内に発生する確率を87%と発表していることを踏まえれば、国民の不安は当然である。私は、菅首相が政治の立場で決断したことを評価するし、彼は政治家として、その責任を取る腹づもりを決めていたと推測する。
当の中電は、緊急に開いた臨時取締役会でもすぐには結論が出ず、9日に入って、首相の要請を受け入れるという判断をした。新聞報道によれば、記者会見で配った資料には、「公共性の高い事業を営む当社にとって、菅首相の停止要請は事実上、国の指示・命令と同じ」と記されていたとある。本来であれば、民間企業である電力会社として、地域住民のみならず、ユーザー、株主に対して、リスクを取って説明責任を果たすという立場に立って、浜岡の停止を判断するのが筋論であったはずである。
結局、日本の電力会社は、「国策民営」であり、その代わりに地域独占という特権を与えられてきた特殊な産業である。今年の夏に予想される電力不足を各電力会社間の電力融通で解決しようにも、電力会社間を結ぶ送電容量は小さく、送ることができる電力は限られる。地域独占により閉鎖した電力網システムを構築してきた弊害がここに来て現れた。
今から10年以上前に、日本でも電力構造改革が議論されたが、実態としては何も変わらなかった。終戦直後に決めた9電力体制をそのまま引きずってきたことの問題が、今回の地震、津波、原発事故という形であぶり出されたと思うのは私だけではあるまい。
遅ればせながらも、これから日本の原子力をどうするのか、代替エネルギーをどう開発するのか、電力の安定供給をどのような形で担保するのか、といった本質的な議論を始めるべきである。その中で、「国策民営」、「発送配電を垂直統合した地域独占」という現在の電力産業の構造が適しているのか、考えるべきである。これは、まさに構造問題である。