福島原発事故の教訓
(2011/3/24)
福島第一原発所の事故は、日本にとって大きな教訓を与えるものとなった。
原子力発電の安全神話の崩壊はきわめて深刻である。政府、原子力関係者そして電力会社も、日本の原子力技術は世界最高であり、米国のスリーマイルアイランドや旧ソ連のチェルノブイリのような大惨事は絶対にありえないと言い続けてきた。しかし、そのような言葉は、自然が起こす大災害、今回のマグニチュード9という大地震とそれによって引き起こされた津波の前には、まったく意味を持たなかった。
私は原子力反対論者ではないが、これまでの日本の原子力推進には、いくつかの構造的な問題が潜んでいたと思っている。
その第一は、「日本の技術は世界最高であり、これまで海外で起きた原子力発電所の事故は、日本では絶対に起こりえない」と言い続けてきた専門家と称する人々の「傲り」である。人間のすることに「絶対」はあり得ない。原子力発電所が事故を起こす確率は、いずれの国、いずれの地域であれ、ゼロにはなりえない。そのリスクを社会として受け入れるのか否かという議論が、残念ながら日本ではなかった。言い換えれば、これまで原子力を推進する政府と電力業界が「日本の原子力は絶対に安全」と言い続けてきたことに嘘があった。
二つ目の問題点は、日本では原子力規制機関である原子力安全・保安院が経済産業省の中に置かれている点である。二つの組織の間には、明らかに利害の背反が存在しており、原子力発電を推進する経済産業省が規制機関の役割を兼務することに無理がある。アメリカを見ればわかるように、規制機関は独立性を保つことが原則である(アメリカの原子力規制委員会は独立しており、エネルギー省とは全く関わりを持たない)。この点で、日本における規制の実施や情報の開示について、透明性という点で、疑問が投げかけられる。
三つ目は、日本の電力構造問題である。10年以上前に、日本も世界の趨勢として構造改革問題が議論されたが、結局、電力会社の地域独占という構造は実態として変わらなかった。そして、先進国の電力構造としてはきわめて特異な形で電力会社の独占事業形態が存在し続けた。しかし、今回の福島の事故により、地域独占という日本の電力構造の負の側面が表面化した。
東京電力は福島原発が止まったことで、供給力に大きな不足を生じ、今年の夏だけでなく、来年の夏においても電力の供給に制限が出る可能性があると発表している。隣接する東北電力は東京電力と同様に発電所の被害を受けており、供給余力がないこと、中部電力とは周波数が異なり、電力供給を受けたくとも、周波数変換装置の容量が100万kWしかないことが理由である。
後者の周波数変換装置の能力が大きな制約になっているという説明は、一見なるほどと思わせるが、ではなぜ100万kWの能力しかないのだろうかと疑問を抱く人は少ない。実は、日本の電力網は日本全体をネットワークで網羅するような形にはなっていない。北は北海道から南は九州電力まで、各社の営業区域は確かにネットワークになっているが、電力会社間の結合は細い。すなわち、日本全体が網の目になっているのではなく、電力会社ごとのネットワークを結び合わせた串刺し団子のような構造になっている。
そのような形になった理由は、電力会社が発電・送電・配電を垂直統合した地域独占という事業形態を取っていることに起因する。隣り合う二つの電力会社は相手の市場に入ることはなく、隣の電力網と一体化する必要はない。したがって、若干の電力融通を行うための接続容量しか想定していない。結局、今回のような大事故に直面しても、日本全体で電力供給を支え合うという構造にはなっていない。すなわち、関東に住んでいる人は東京電力にすべてを依存せざるを得ず、他の選択肢を持つことができない。
世界の経済を見ればわかるように、企業の事業戦略、国の産業政策、規制のあり方もグローバルな規範で変わってきている。しかし、過去半世紀にわたって、原子力発電の推進を含めて、日本の電力政策、電力産業の地域独占構造が大きく変化することはなかった。
そのような特殊な事業環境の中で、地震と津波という大災害をきっかけに、日本の原子力発電所の安全神話と、日本の電力会社が常に口にしてきた「安定的で高品質な日本の電力供給」という二つのうたい文句がもろくも崩れ去ったことだけは事実である。