『人類の会議――国際連合をめぐる大国の攻防』 ポール・ケネディ著 古賀林幸訳 200710月 日本経済新聞出版社

 

 

本書は、「大国の興亡」の著者として名高いポール・ケネディの手による、成立から60年を経た国連の成果と失敗、そして問題点とその改革という過去半世紀にわたる棚卸しと分析、そして展望である。

 

日本政府が安全保障理事会入りを目論み、その舞台裏工作を行ったものの、中国の反撃にあって脆くもその夢を破られたのは、ついこの前のことである。なるほど、この常任理事国入りの問題で言えば、日本はアメリカに次ぐ大金を拠出しているのに、その存在を軽視されたままであると言われれば、日本人の心情としては、経済大国としてそれ相当のポストを手にしてもいいのではないかという意見には同調したくもなる。

 

日本政府は、国際問題とりわけ国際紛争に関しては、何かと「国連中心主義」という言葉を持ち出し、国連で決めたことが錦の御旗であるという立場を取る。一見、理屈は通りそうに見えるが、果たして、そんなに美しく単純化できる話なのだろうか。

 

そもそも国連とは何なのか。アルファベットの羅列で示される膨大な数の国連機関(例えば、UNICEFUNCTADUNDP等々)の役割と相互関係、安全保障理事会と国連総会とはどちらが上位にあるのか、これらを説明できる人が果たしてどれだけいるのだろうか。

 

国連の設立基盤がドイツと日本の敗戦後の世界秩序と平和をいかにして保障するかという戦勝国の立場にあったことを考えれば、今や国連組織が多くの矛盾を抱えた存在であり、米、英、仏、露、中国の5カ国が拒否権を持つことの不合理さ、際限なく肥大していった官僚機構の問題点が出てきて当たり前である。

 

最大の資金を提供する米国の関心が、最貧国を含めて一国一票で運営される半面何らの強制力も持たない総会ではなく、安全保障理事会にあることは言うまでもない。軍事力を持って国連の決定事項を実行に移すことができるのは安全保障理事会だけである。この点では、中国やロシアも同じ立場にあり(もちろん英仏も例外ではない)、彼らがその特権を守ろうとするのは当たり前の話である。ましてや、中国が日本にそのような特権を与えることを認めるはずがない。

 

日本政府は常任理事国入りしたくてたまらないようであるが、紛争の解決に軍事力を使えない日本に何ができるのだろうか。理事会の審議事項には平和維持活動がついて回る。コソボ、ルワンダ、西アフリカ、シエラレオネなどの内乱処理で分かるように、強力な装備と訓練された軍隊が無ければ解決できない紛争はいくらでも出てきている。そのような状況に日本が主体的に対応できるかといえば、それは不可能であろう。

 

国連は決して理想的な世界政府機構ではない。国家間の政治的な葛藤、北の富める国と南の貧しき国との権限争い、官僚化した組織など、理想からはほど遠い実態もある。過去60年間の国連の成果も、失敗と成功が相半ばするというのが本当のところである。

 

一方、戦後の世界の情勢は、終戦直後に先進国が想定していたものからは、とてつもなく違ったものになってきている。植民地であったアジアやアフリカの国々は独立し、米国だけは軍事的にも経済的にも依然として世界一であるが、英仏の地位は大きく後退している。ロシアには、かつてのソ連のような軍事力を背景とした覇権を示す力はない。東アジアの途上国の経済発展はめざましく、中国が日本を追い抜き、米国に次ぐ第二の経済大国になるのはもうすぐである。かつて英国の植民地であったインドも中国と並んで世界の大国になろうとしている。

 

「大国の興亡」ではないが、途上国の台頭により、世界の経済、政治、軍事までも、その底辺から大きく変化してしまった。戦勝5カ国の拒否権、巨大化した国連官僚組織の改革は容易ではないが、時代の変化に逆らうことも不可能であろう。

 

日本が国連を重視することはそれでよい。しかし、日本がその中でどのようなリーダーシップを示していくのか、何をやろうとしているのかがよく見えない。政府のいう「国連中心主義」とは、私には、国連で決めたことだから日本もそれに付いて行きますという意味にしか取れない。

 

国連の問題、将来に向けた改革、日本としての関わり方を考える上で貴重な一冊である。一読することをお勧めする。

 

 

この文章は、ビジネスネット書店「クリエイジ」の2008512日の書評として掲載したものです。<http://www.creage.ne.jp/>

 

 

 

 

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