野口英世 (2008.5.25)
私は、この三年半ほど、ガーナでODAの仕事に係わっている。ここアクラは野口英世が黄熱病の研究中に死去した地である。
一昨年、小泉首相がアクラのコレブ病院にある野口博士の記念碑を訪れた際に、「野口英世アフリカ賞」の創設を提案した。そんなこともあって、私は今回はじめて博士の記念碑を訪れてみた。現地では、施設を管理する方に博士が研究に使っていた部屋の内部にも案内して貰った。建物は今でも研修用の実験室として使われており、その一角に博士の居室が残っている。そこには、当時博士が使っていた顕微鏡三台のほか、日本から持ってきた時計、そしていくつかの写真が飾ってある。そのような展示物の一つは、博士が亡くなった翌日1928年5月22日付のニューヨークタイムズ紙が彼の死去を伝える記事であった。紙面を大きくを割いて、悲報を伝えている。
野口英世ほど毀誉褒貶の激しい偉人はそれほどいないであろう。
皆が知っているように、赤子の時に負った左手の大火傷、貧しい家庭環境、そして学歴がない中で、逆にそれをバネとして国際的に細菌学者として名声を得ていった。そして、最後にガーナで非業の死を遂げる。私は、学者としての彼の行き方には、狂気と言っても良いほどの信念と情熱があったのだと感心するし、彼のような日本人がアフリカに名を残したことを同胞として誇りに思う。
しかし、彼はその人生において金と女に非常にルーズであり、彼の論文においても、その後否定されたものが少なからずあった、という否定的な意見を持つ人たちがいることも確かである。しかし、これが彼の偉大な業績を否定することにはつながらない。そもそも、金と女の話は個人的な問題であり、医学の発展に尽くした彼の業績とはまったく別のことがらである。世間の常識から見ると、博士は少々というよりも、かなりの変人であった、ということであろう。
発見や論文のいくつかがその後否定されたという話も、すこし調べてみれば、学問の発展の中での出来事であることが分かる。彼はいわゆる細菌学者の最後の時代にあり、その後、ウイルスの研究が始まる。彼が使っていた光学顕微鏡ではウイルスを捉えることは出来ない。それは当時の細菌学の限界であった。彼は、まさに時代の狭間にいたわけである。もし、彼に電子顕微鏡があったならば、その後ももっとすばらしい業績を上げ続けたであろうし、黄熱病で死ぬこともなかったであろう。
(注)野口博士が南米で使ったワクチンがアフリカで効かないことから、彼は病原体を特定するためにガーナ(当時の黄金海岸)に渡った。しかし、黄熱病の原因は細菌ではなく、もっと小さいウイルスである。それを光学顕微鏡で見ることはできない。ガーナに渡った半年後、病原体を見つけられないまま、自らが黄熱病のウイルスに冒されてしまう。「私にはわからない」という言葉を残して、生涯をとじたという。ちなみに、彼が発見を報告した南米の黄熱病の病原菌は、症状が類似しているワイル病スピロヘータであったと言われる。
そもそも人類に多大な功績を残した偉人には、「変人」が多い。アインシュタインなどはその典型である。日本の社会、とりわけ今の日本は変人を含めて異質なものを認めない、認めないどころか排除しようとする(イジメがその典型である)。そのような社会だから、世界をリードするような研究がなかなか出てこない。これはノーベル賞受賞者の数を見れば歴然としている。
さて話が変な方向に行ってしまったが、最後に、野口博士が医者を志して会津から上京するに際して、生家の柱に刻み残した言葉がある。「志を得ざれば、再び此地を踏まず」。今の日本人が忘れてしまった気概である。
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野口博士が黄熱病の研究に使った建屋。今も病院の設備として使われている。 |
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野口英世博士の胸像。 |
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今でも実習用の部屋として使われている。野口博士の部屋はこの大部屋の横にある。 |
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博士と奥さんのメリーさんの写真。 |
写真: JICA調査団の同僚、加茂さんからの提供。 |