カルタゴ

 

仕事でチュニジアのチュニスに出張した機会に、カルタゴを訪れてみた。実はチュニスに入るまで、カルタゴがチュニスのすぐ郊外にあることを、私は全く知らなかった。そもそも、カルタゴの名前は歴史の教科書や、その昔「ローマ帝国のなんとやら」といった類の映画でなじみがあるが、いざその時代背景を聞かれても、地中海のどこぞにあった古代の都市国家くらいの説明しかできない。「ハンニバル」、「ポエニ戦争」と断片的な言葉だけは出てくるが、それ以上の知識はない。

 

カルタゴの町の雰囲気は、まさにお金持ちの住む高級住宅地である。町は十分に歩いて回ることが出来る程度の広さであり、一日掛けて、足で遺跡巡りをするのは楽しいだろう。私にはとにかく初めての場所であり、地理もよく分からないので、チュニスからの行きはタクシーを使ったが、料金はメーターどおりの13ディナール、日本円で1200円程度と安い。距離的には20kmくらいは走ったのではないかと思う。3人で割り勘にすれば400円と、日本の感覚からすれば非常に安い。帰りは電車に乗り、タクシーより速く20分程度でチュニスに戻ることができる。

 

当時の町はそれほど広大ではなかったようである。下の想像図から分かるように、半島中央の丘から海岸に向けて、町並みが広がっている。カルタゴの経済は地中海貿易で栄えたのであろう。海岸から内陸側に円形の船着き場が作られている。歴史をひもといてみると、ギリシア時代から栄えた町であり、その起源は紀元前8世紀まで遡る。強力な海軍力を持っていたカルタゴは同じく地中海で勢力を持っていたギリシアとぶつかり、シチリア島での覇権を巡り戦争が始まる。これがシチリア戦争である。紀元前3世紀にはローマとの覇権争いが始まり、1世紀にわたるポエニ戦争により、カルタゴはローマに滅ぼされる。消滅したカルタゴの故地には、ローマによって新たな植民都市が作られた。現在ここに残る遺跡の多くはローマ時代のものといわれる。

 

遺跡は町の中のあちらこちらに存在する。丘の上には博物館があり、遺跡からの発掘物が陳列してある。少なくとも私の目には、それほど豊富な陳列物とは写らなかったが、未だ発掘が進んでいないのであろうか。この丘の上以外にも、円形劇場、庶民の住居跡がある。圧巻は大浴場の遺跡であろう。作られた時期はDC165年と記されていたと記憶する。下の写真にあるように、その当時、これだけの建築物を造る技術を持っていたことには驚かされる。

 

最後に、もしここを訪れ、足で歩くならば一日がかりとなるので、食事の楽しみも気になる。Next Oneというイタリアレストランがあり、道路沿いの野外テーブルで食事をするのは気持ちがよい。味もそこそこいける。

 

l  カルタゴの町の再現図。半島の先にある小高い丘から、海に向かって町が広がっている。

l  ちょうど画面の真ん中あたりにある丸い部分が船着き場である。

l  左の図と見比べると町の構成がよく分かる。

l  まさに海洋国家としての作りになっている。権力者は丘の上の方に住み、庶民は丘陵の下の方に住んでいたのだろうか。

l  右上の図を参照すれば、丘の上から右上の方向を眺めた方向にある。

l  周りはかなり立派な屋敷が並んでいる。よく見ると、大使館として使われているものがいくつかある。

l  丘の上の遺跡の発掘現場。

l  向こう側に現在の町並みが広がり、海につながる。

l  アントニンの大浴場。

l  左の大浴場の遺跡を復元した想像図。

l  165年の建設とあったので、日本でいえば弥生時代である。

 

 

SY01265_古い出来事」目次に戻る。

 

door「ホームページ」に戻る。