権力、情緒、妥協、そして忖度 (2023/9/23)

 

 

ちょっと古いが、AERAdotのコラムでこんなのを見つけた。コラムのタイトルは「『権力』は日本と欧米でこんなに違う」、書いたのは上智大学の教授でパリッサ・ハギリアンさん*/

 

そのコラムの中に、「教授である私がコンビニで弁当を買ってこいと言ったら、あなたはどう答えるか?」というものがあった。これを彼女の生徒達に聞いたら、こんな答えが返ってきたという。

 

スウェーデンの留学生は、「そもそもそれは生徒の義務ではないし、この質問自体が不適切」とにべもない。米国の学生は、「それが日本の習慣ならば私はそうしても良いが、米国ならば絶対にしない」と、これも己を明確にしている。フランスの学生は、「教授が私の分も買ってくれるならば問題なし」と、経済的合理性から判断した。

 

では日本の学生はといえば、「もちろん買ってきます」と答えている。

 

パリッサ・ハギリアンさんは、権力形態の受け入れ方は、国の文化によって大きく異なることを学んだと結んでいる。特にアジアの世界では、情緒的な権力も重要な役割を果たすという。

 

私はこのコラムを読んで、今の若い人でも、周りへの「配慮」、言葉は綺麗であるが権力への忖度や己を殺すことがまだ常識となっているのだと、つくづく感じた次第である。

 

今の世に、いつまでも権力を持つ者に対して情緒性を持って対応することが本当に良いのだろうかと、個人的には大いに疑問がある。昭和のおっさん達は、それが「社会の和」、「日本の美徳だ」と言うだろうが、それが社会や組織を如何に歪めてきたかという事例には事欠かない、

 

福島第一発電所の事故で露呈した、専門家や学識経験者が作った「原子力村」の機能不全、実質破綻した東芝の経営のガバナンス欠如、最近で言えばジャニース事務所のスキャンダルと過去数十年にわたって事件から目をそらし続けたマスメディア、とりわけ放送業界の倫理観の欠如は酷かった。どれを取っても権力を持つ者に対する情緒の優先、それが力のある者に対する忖度となる。その結果はと言えば、権力者であったはずの組織は壊滅的な打撃を被った。

 

夏目漱石の草枕に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい。」という名文句があるが、今もって、日本人の心情は百年以上も前のそれとさほど変わっていない。

 

私個人的には、周りの雰囲気を乱したとしても、安直な妥協は避けることにしている。例えそれが「意地を通せば窮屈」な状況を作っても、七十を超えた身、いまさら周りの顔色を伺って何になると、割り切ることにしている。

 

 

 

*/         AERAdot.10th (2022/11/09 1000

 

 

 

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