『愛国者の条件-昭和の失策とナショナリズムの本質を問う』 半藤一利・戸高一成著 200612月 ダイヤモンド社

 

 

このところ「愛国心」、「美しい日本」、はたまた「品格」といった類の議論が喧しい。曰く、「近頃の若いモンは礼儀を知らない」、「アメリカ流の拝金主義に犯されている」、挙げ句は「これは行き過ぎた市場主義、個人主義の結果だ」といった論調である。

 

本書を著した二人は、昭和の歴史をテーマにしたノンフィクションを数多く出版している(半藤氏の「ノモンハンの夏」や「昭和史」を読まれた方は多いと思う)。その著者が本書では、昭和の歴史を踏まえて国を動かす者の責任の取り方、国と国民のあり方を問い続けた著者の目から、昨今盛んに問われている「愛国心」という問題に踏み込んでいる。

 

この手の話はややもすればイデオロギーとして議論されがちであるが、本書では愛国心(国を愛するということ)を、国が国民に何を約束しかつそれを守り、一方、国民は国に何をするかという、国と個人との関わりを原点に置いて論じている。

 

愛国心とは教育を通して植え付けるものではない。おおよそ国が国民に愛国心を押しつけたとき、その裏に何があるかを考えることの方が重要である。愛国心とは上から押しつけられた教育ではなく、日常の生活や家庭の中から生まれてくるという本書の主張はもっともである。私も、そもそも今の日本人が、とりわけ若い人たちが他の国と比較して愛国心に欠けているとは思わない。

 

二人の著者が得意とする昭和の歴史の分析、とりわけ日本が太平洋戦争に突入し、そして敗北に至るまでの軍部の行動を引用することで、当時の愛国心とは何であったのか、そしてそれを強制的に押しつけ国を引っ張っていった主導者たちがいかに無責任であったかという分析は秀逸であり、現代社会にもよく通じる。

 

明治の頃は国を守るという軍隊の本質に立っていた軍部がいつの間にか官僚化し、国ではなく自らのグループの利益を確保するために政治を動かしていったという構図は、決して昔話と言っていられない。士官学校や陸海軍大学の成績順位だけで昇進していった将軍たちが、戦争という非常時ではいかに役に立たなかったという話は、それを現在の企業や公官庁の組織構造に置き換えて考えると、身につまされることも多い。

 

さらに、「俺も後を追う」と言って、家族を守るために散っていった特攻隊員を送り出した多くの指導者たちが、その後、口をぬぐってのうのうと責任を逃れていったという事実は、今の社会でよく見る構図でもある。

 

政府や政治家は国民に対して生命や財産を守ること、さらには社会の繁栄を目指すことを約束し、国民はそれに応えて国に尽くす。これが原点である。国の指導者や政府がいくら愛国心を叫んでも、彼らの行動が尊敬されないならば、誰も共感しない。

 

 

この文章は、ビジネスネット書店「クリエイジ」の2007319日の書評として掲載したものです。<http://www.creage.ne.jp/>

 

 

 

 

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